「自由」は自由でない。愛国心をめぐるスポーツと教育について

アメリカのスーパーボールで国歌斉唱時に起立しなかったとして、愛国心が欠如していると避難され、もめている。

キャバリアーズもウォリアーズも「ホワイトハウスには行かない」で意思が一致

起立しなかった選手は、大統領への人種差別と捉えられる発言に抗議しているとのこと。

これについて私は、いくらアメリカに自由があるからと言って、なんでも自由であるわけではないと思った。その自由には責任を伴う。スポーツ選手がその場で政治的言動を行うことで、物議をかもし非難を受ける。その個人ならまだしも、その結果によってそのチーム全体がホワイトハウスへの招待を取り消された。やるなら別な場で、個人が責任を取れる場でやれよと思った。

これに似たことが日本でもある。

公立の学校で教師が国歌斉唱をしない、起立しないということだ。

思想・良心の自由または思想・信条の自由があるから、国歌斉唱をしたくないという主張はわかる。

ただ、公立の学校教師は地方公務員だ。国から給料をもらってるのに国に逆らうとか意味不明。公務員なのに愛国心が無いなら公立辞めて私立行けよって思う。

面従腹背座右の銘な、貧困調査好きなビーチ前川が前文部科学省事務次官であったのは誰得だったんだよ。

戦後の日本は愛国心教育が足りないのではない。自虐史観教育をやりすぎる日教組が原因だ。

学業が優秀な人ほど勉強に励み、その分自虐史観を学んで吸収し、あたかもそれが事実であると誤認したまま大人になる。その人らがまた社会の上部に立ち、自虐史観を広める。

日本が好き、愛国心がある。それを言うことは恥ずかしいことではない。